上島学の展望
2017年03月27日 有馬 啓介
弓削島の石灰山から西の島々を望む(昭和30年代後半)
岩城島の岩城八幡神社が鎮座している海にせり出した亀山と呼ばれる丘陵には、かつて中世の城郭である亀山城がありました。丘陵南端の海岸部には複数の人工的に開けられた柱穴である岩礁ピットが見られます。このことについて、大変興味深い記録が、長崎出島のオランダ商館の医師であったドイツ人博物学者のエンゲルベルト・ケンペルによって残されています。ケンペルの『日本誌』には、元禄4年(1691年)に岩城島沖を通過した際に、亀山の丘陵上に寺社、岸辺には二つの門(鳥居)があったことが記されています。岩礁ピットの多くは、中世水軍関連の繋船施設の柱穴と考えられます。一方、岩礁ピットの中には、形状や大きさ、ケンペルの記録等から、鳥居用と推測される柱穴もあります。
19世紀になると、ドイツ人のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、紀行文『江戸参府紀行』の中で多島海である瀬戸内海の自然景観や人文景観を詳細に記述し、その多彩な景観を賞賛しました。それは、海外のみならず、多くの日本人の瀬戸内海の見方に多大なる影響を与えました。
21世紀となった現在、瀬戸内海には多くの人々が訪れ、かつてのケンペルやシーボルトのようにそこで得た多くの情報を発信しています。瀬戸内海の島々に住む人々が推進する地域学がそれらの情報と上手く呼応すれば、地域学は新たな段階へ前進することでしょう。
これまで「ふるさと上島学への招待」と題して、拙い記事を連載してきました。これがきっかけで上島学が緒に就くこととなったのであれば、私にとってこれ以上の喜びはありません。(おわり)