上島の遺跡⑯ 荘園と海賊衆
2019年12月02日 有馬 啓介
亀山城跡の岩礁ピット
上島町域に存在した荘園は、12世紀の中頃から古文書に登場し始めます。弓削島荘の場合、成立当初の領家は明らかでありませんが、鳥羽上皇や後白河上皇が本家(上級の領主)であったと考えられています。後に荘園は後白河上皇から皇女の宣陽門院に譲られ、さらに宣陽門院は延応元(1239)年にこれを弘法大師ゆかりの東寺に寄進し、東寺領としての弓削島荘の歴史が始まりました。一方、佐島、生名島、岩城島は石清水八幡宮の荘園だったことが『石清水八幡宮文書』から分かっています。荘園とは、「田地を主体とした大規模な私的所有地」を意味し、土地生産物の生ずる場であったことから、当時の社会的・経済的な基盤でした。
やがて、芸予諸島では「村上海賊」と呼ばれる海賊衆が台頭し、その本拠地である海城が各地に築城されました。平成28年4月に中世の村上海賊に関するストーリーが日本遺産に認定されましたが、能島村上氏の存在を示す最も古い記録は『東寺百合文書』の中で確認することができます。それによると貞和5(1349)年に幕府の使節が弓削島に訪れた際に、能島村上氏は海上警護に当たっていたことが分かります。
芸予諸島の代表的な海城としては、今治市の見近城跡、能島城跡、来島城跡が挙げられます。海城の海岸部には、岩礁ピットと呼ばれる繋船施設の柱穴跡が見られることがあります。現在の島嶼部の海岸の多くは護岸工事等によって中世的な景観が改変されていますが、岩城島の岩城八幡神社にある亀山城跡の丘陵の南の海岸部には今でも岩礁ピットを観察することができます。その一部は鳥居用の柱穴跡と考えられています。