上島Stories

Kamijima stories

島の畑地と溜池

2015年11月25日 有馬 啓介

生名島後新開の水田(昭和30年代) 生名村写真史編集委員会『ふるさとの想い出 生名島』昭和62年 から

 秋のある日、町指定天然記念物であるナタオレノキの調査のために高井神島を訪れました。高井神島の集落の後方を眺めると、尾根近くまで竹林が見えました。案内をしてくれた高井神島の方によると、現在竹林である場所は、かつては段々畑であったようです。このような現象は、島の各地で見られます。

 昭和30年代から40年代にかけての航空写真と現在の航空写真を見比べると、前者には山の中に地面の色が目立ちます。現在とは比較にならないほど山に畑地が広がっていたのです。麦やサツマイモ、除虫菊、柑橘等の畑です。昨年度に実施した調査でも、昭和時代の島の農業についての聞き取りを行いました。島で農業が盛んに行われていた時代には、二毛作のイモと麦の収穫の時期に合わせて学校では農繁休業があったというお話を聞くこともできました。地域によっては、それが稲や柑橘の収穫の時期であったことでしょう。

 日本人は稲作農耕民といわれていますが、果たしてそうなのでしょうか。時代や地域によって異なり、一括りにするのはよくないのかもしれません。しかし、稲穂揺れる風景を見ると、「日本の原風景」と感じてしまうのは、多くの日本人なのかもしれません。

 現在の上島町にも、水田が見られる地域があります。岩城島の小漕地域からは、弥生時代の穂摘具である石庖丁が出土しており、そこでは約2,000年間稲作農耕が行われていたのかもしれません。また、島のいたるところに灌漑用の溜池が見られますが、それは稲作が盛んであった時代を今に伝えています。

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