潮と土について思うこと
2015年12月25日 有馬 啓介
鯛しばり網(昭和30年頃) 魚島村役場『島の肖像 魚島村制施行108周年記念写真集』平成16年 から
ユネスコ記憶遺産に登録された国宝『東寺百合文書』には、中世の「塩の荘園」として知られる弓削島荘に関する記録が残されています。中世において、塩は米と同様に貴重な産物でした。江戸時代の萩藩では、防長三白(米・紙・塩。のちに蝋を加えて防長四白とも呼ばれる)の生産を奨励しました。塩は藩の重要な収入源となり、塩田開発が進められました。
「塩の荘園」として名高い弓削島荘ですが、塩以外にも、鯛やカキ、荒布(アラメ)等の海産物も年貢として納められました。
また、『東寺百合文書』には、当時の弓削島の田地及び畑地の面積についての記述もあります。製塩には、塩浜(塩田)とともに煮沸用の燃料を供給する塩山が必要であり、山の管理も徹底されていました。「塩の荘園」には、島の恵みを生かした生業が成り立ち、農山漁村的な風景が広がっていたことでしょう。
海に囲まれ、古くから漁民が活躍した日本列島ですが、沿岸部では漁業だけを行う純漁村は少なく、多くは半農半漁村であると言われています。海に面した集落でも潮の恵みと土の恵みを享受していました。漁業が盛んであった魚島でも、昭和30年頃は漁業との兼業農家が多かったようです。『魚島村むかしかし(伝説・民話・民謡)』(魚島村公民館 平成元年)には、「大漁節」と共に、「麦たたき歌」が掲載されています。
かつての人々の生活は、複合的な生業で成り立っていることが普通でした。民俗学では、「複合生業論」として研究が展開されています。