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造船業と海運

2016年03月25日 有馬 啓介

因島から望む弓削島 日立造船株式会社『八十周年を迎えて』昭和36年 から

 瀬戸内海は、古くから海上交通の大動脈としての役割を担ってきました。中世の弓削島荘の生産物の運搬記録からも活発な海運の様子が分かります。

 文安2年(1445年)から翌年1月までの1年余りの間に兵庫北関(現在の神戸市)を通過した主要な船舶の積荷に対する関料等を詳細に記載した台帳である『兵庫北関入船納帳』には、弓削籍の26隻が記録に残されています。その26隻の積載品目及び積載量(総量)を見ると、備後3,513石、マメ20石、赤イワシ180石で、95パーセント近くを備後が占めています。備後とは、備後塩を指すと考えられています。弓削島周辺の岩城島、伯方島、生口島、因島から兵庫北関に入関した船舶の積載品目の多くに備後の文字が見られます。弓削島荘をはじめとした島々で生産された塩は、瀬戸内海での海上輸送によって、畿内に送られていたのです。

 一方、瀬戸内海航路は、造船業の発展にも重要な意味をもっていました。かつて、瀬戸内海各地には、潮待ち、風待ちの港が数多くありました。江戸時代の航路は、造船技術の発達により本州の陸地沿いを航行する「地乗り航路」から瀬戸内海の中央を航行する「沖乗り航路」へと移行していきました。「島本陣」や多くの船舶の入港で栄えた岩城港はその好例です。このような港では、船舶の修繕が行われました。その技術は、やがては新造船の建造の下地となり、現在の造船業の発展に大きく貢献しています。

 第2次世界大戦後、空爆の被害が比較的軽微であった瀬戸内海沿岸の造船業は、復興の原動力ともなりました。現在でも多くの造船マンがこの地域で活躍しています。

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