上島Stories

Kamijima stories

かみじま郷土話④ 百貫島の歴史

2020年12月01日 曽根 大地

百貫島上空から

弓削島の隣に描かれている百貫島(東寺百合文書webの画像を基に作成)

百貫島は、弓削島の北東にある島です。弓削島の久司浦地区や大谷地区から島を間近に眺めることができます。広い海にぽつりと浮かぶこの小島を見ていると、どこかのんびりした気持ちになります。

中世の百貫島は、「辺屋路小島」や「辺屋路島」といった名で東寺百合文書に現れます。弓削島が描かれた絵図には、百貫島も網庭の文字とともに描かれています(京都府立京都学・歴彩館 東寺百合文書WEB「伊予国弓削島庄地頭領家相分差図」)。辺屋路(小)島が、現在の百貫島という名前にいつ変化したのかはわかっていませんが、『弓削町誌』や『越智郡むかしむかし』などの書籍に、名前にまつわる伝説が紹介されています。

百貫島の頂上には灯台が建てられています。明治26年に国が百貫島を購入して建設を開始し、翌27年に完成しました。昭和34年までは有人灯台であったため、島に最も近い弓削島の久司浦地区の人々が灯台に関わる仕事をすることが多かったようです。昭和20年代に灯台守をされていた方の回顧録によれば、当時、3家族が百貫島の宿舎で暮らしていたそうです。島での生活は、上弓削に買い物に行くのに船で片道2時間を要したこと、タンクに雨水を溜めて飲料水と生活用水を賄っていたこと、シケや台風が続く季節は、島から一歩も外に出られなかったことなど、美しい小島の景色からは想像できないほど過酷なものであったようです。

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