かみじま郷土話⑨ 弓削島荘の成立から東寺領荘園へ
2021年10月01日 曽根 大地
弓削島全景
東寺百合文書に現れる弓削島の最古の史料は、1135年(保延元年)「伊予守藤原忠隆請文」(無号之部3)の記録です。この後、同年に「伊予国留守所下文」(テ函3)が弓削島に下され、塩浜と田畠の所当官物(年貢を納めること)と、国使(国司に派遣され田畠を調査する役人)の立入を免除され、荘園としての基盤ができあがりました。荘園が成立した詳細な時期は不明ですが、1150年(久安6年)の記録(セ函1)では「弓削御庄」としてその名が登場していることから、保延元年から久安6年の間であることが伺えます。
弓削島荘の最初の領有者は、源氏尼真性という女性でした。真性は、1171年(承安元年)に養女である藤原綱子に譲渡し(こ函9)、弓削島荘はさらに後白河上皇に寄進されることとなります。上皇は、膨大な数の皇室領荘園を所有しており、弓削島荘もその内のひとつに加わることとなります。後にその荘園群は、上皇により京都の長講堂に寄進され、長講堂領となります。上皇は死の直前となる1192年(建久3年)に、長講堂領荘園を娘の宣陽門院へ譲渡します。弘法大師を深く信仰していた宣陽門院が、1239年(延応元年)に弓削島荘を東寺に寄進したことにより、東寺領弓削島荘としての歴史が始まりました(「東寺文書」楽乙1)。
(史料の函名と番号は東寺百合文書WEBより。スマートフォンやパソコンで東寺百合文書の原本写真を見ることができます。)