近代化遺産のこと
2016年05月26日 有馬 啓介
石山と三ッ小島(昭和30年頃) 弓削町『弓削町制施行50周年-記念写真集-』平成15年 から
生名島から東を眺めると、弓削島の山々がまるで屏風のように連なっている光景が目に留まります。北から順に追っていくと、三山、立石山、古法皇山、石山(石灰山)が並び、下弓削で高度を下げます。下弓削の南では、久司山がなだらかな山容を見せています。遠くから眺めると、弓削島は急峻な地形の島と比較的なだらかな地形の島が下弓削で接しているようです。
民俗学者宮本常一氏は昭和32年8月に弓削島を訪れ、その時に見聞きしたことを『私の日本地図6 瀬戸内海Ⅱ 芸予の海』(同友館、1969年)の中で記しています。明治の初め頃に下弓削には島を東西に貫く船が通れるほどの水路があったようです。そのようなことを宮本氏は古老から聞いています。当時の下弓削にはどのような風景が広がっていたのでしょうか。
話を少し戻しましょう。生名島から見た石山はとても不自然な山の端(稜線)です。まるでスプーンでえぐられた食べかけのアイスクリームのようです。石山には、かつて石灰鉱山があり、露天掘りの結果、現在のような地形になりました。江戸時代後期の文政3年(1820年)に鉱脈が発見されたとされ、明治になると本格的な採掘が始まりました。昭和47年に四阪島製錬所への供給が終了し、石灰鉱山は休山することとなりますが、明治から昭和にかけて石灰業は海運業とともに弓削島の基幹産業でした。
弓削島石灰鉱山跡は、弓削島の明治以降の発展を支えた産業遺産であり、近代化遺産です。石山は緑の中に白く輝く美しさとその歴史から、今も地域にとってシンボリックな存在です。